九谷庄三
1816(文化13)~1883(明治16)年
九谷庄三は1816(文化13)年、能美郡寺井村(現在の能美市寺井町)の茶屋を兼業していた農家に生まれました。幼名は庄七といい、庄三と改めたのは嘉永年間頃で、九谷姓を名乗るようになったのは明治時代に入ってからといわれます。庄七は叔父の茶屋与三郎に育てられましたが、祖父と血縁関係にあった寺井村十村役で文人でもあった牧野孫七のすすめによって、陶工の道を歩むことになりました。11歳の時に若杉窯の見習工として従事し、この窯で、色絵九谷の名工で師の粟生屋源右衛門や赤絵勇次郎らから陶技の影響を受けました。18歳になると山代の宮本屋窯で赤絵細描の技法を1年半学び、その後師が関わっていた小野窯に招かれ、その技量を発揮しました。
庄三は再興九谷の諸窯からの招きを受け、陶工として手腕を発揮しましたが自ら窯元とならず、1841(天保12)年、庄七26歳の時に寺井に帰郷し工房を開き独立しました。その理由は、既に肥前や瀬戸では素地作りと着画のそれぞれの専業化が大量の需要に対応できる生産方式として普及していることを知り、当時加賀の他の地域に先駆けて能美で始まっていた分業化の時流に乗ったと考えられます。この方式は斉田伊三郎(道開)によっても行われ、隣の佐野村にも波及し、能美九谷の飛躍にとって大きな原動力となりました。
明治時代に入り、着画を専業とする庄三の工房はますます多くの陶工を抱える工房となり、門人200~300人を数えたといいます。素地を大量生産する本窯と協業して、九谷焼による殖産興業を推進させました。庄三は実業家としてもその役割を大いに果たし、産業工芸としての九谷焼の産業基盤を築くことに大きく貢献しました。画風は色絵に赤絵、京焼の永楽和全が九谷に伝えた金襴手と、さらに洋絵具の中間色をも加えた豪華絢爛な「彩色金襴手(庄三風)」の様式が確立され、明治九谷の中核をなすものとなりました。それらは貿易商人によって大量に輸出され、明治時代の我が国の貿易品「ジャパンクタニ」として海外で大変好まれ、あわせて国内でも販路を拡げました。