若杉窯 1811(文化8)~1875(明治8)年
江戸後期のいわゆる再興九谷諸窯の中で、加賀藩の殖産興業のため磁器生産の大工場化したものが若杉窯(現在の小松市若杉)です。きっかけは1807(文化4)年に金沢の春日山窯に来窯した京焼の名工青木木米の助工だった本多貞吉が、金沢近郊に無かった磁器原料の陶石を探し求め、小松の花坂山に見つけたことにあります。若杉村の十村役を勤める林八兵衛の助力を得て彼の営む瓦窯で花坂の陶石を利用して1811(文化8)年磁器焼成に成功します。師の青木木米は古九谷に憧れて加賀藩にやって来た経緯もあって、師が去った後も貞吉はその再興に情熱を傾けます。1816(文化13)年に加賀藩郡奉行直轄となり、1836(天保7)年に火災が原因で小松八幡に移窯しますが、「若杉陶器所」として1875(明治8)年まで続きました。
藩直轄後は、量産に向いた染付を多く生産しました。

若杉窯 1811(文化8)~1875(明治8)年
江戸後期のいわゆる再興九谷諸窯の中で、加賀藩の殖産興業のため磁器生産の大工場化したものが若杉窯(現在の小松市若杉)です。きっかけは1807(文化4)年に金沢の春日山窯に来窯した京焼の名工青木木米の助工だった本多貞吉が、金沢近郊に無かった磁器原料の陶石を探し求め、小松の花坂山に見つけたことにあります。若杉村の十村役を勤める林八兵衛の助力を得て彼の営む瓦窯で花坂の陶石を利用して1811(文化8)年磁器焼成に成功します。師の青木木米は古九谷に憧れて加賀藩にやって来た経緯もあって、師が去った後も貞吉はその再興に情熱を傾けます。1816(文化13)年に加賀藩郡奉行直轄となり、1836(天保7)年に火災が原因で小松八幡に移窯しますが、「若杉陶器所」として1875(明治8)年まで続きました。
藩直轄後は、量産に向いた染付を多く生産しました。
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