九谷三は江戸後期に寺井村に生まれ 11歳で加賀藩察の若杉窯に従事することになりました。若杉で色絵九谷の名工、粟生屋源右衛門に出会い、九谷焼の陶画工の道を目指し陶技の習得に励みました。18歳になると師の栗生屋源右衛門の勧めもあってか、大聖寺藩領である山代の宮本屋窯で赤絵細描の画風を1年半学びました。色絵と赤絵の技法を習得した庄三は師の粟生屋源右衛門が関わっていた小野窯に招かれその技量を発揮しました。江戸末期に至って寺井に帰り独立し絵付け工房を開きます。明治の初めころには門人200~300人を数えたといいます。画風は色絵に赤絵、金襴手のみならずた洋絵の具の中間色をも加え豪華絢爛な、いわゆる彩色金襴手を確立します。工房には中川二作や武腰善平ら名人級の門人が育ち、工房一体となって庄三作品を制作します。本作も工房制作といっていい名品です。割り取りで花卉文・山水文・美人画と区分し金襴手の地紋や裏文様、銘文など庄三本人含め幾人かの分担絵付けの可能性を感じる逸品です。