松山窯 1848(嘉永元)~1872(明治5)年

松山窯は、嘉永元年(1848)、大聖寺藩が山本彦左衛門に命じて江沼郡松山村(現加賀市松山町)に興した窯です。その前年から小松の蓮代寺窯で青手古九谷の再現の取り組んでいた松屋菊三郎、粟生屋源右衛門らがこの窯に招かれました。素地は藩内の九谷村・吸坂村・勅使村などの陶石土を使って作られたもので、主として藩の贈答品として古九谷青手系の作品が作られました。
 昭和54-55年の窯跡の発掘調査では、登窯2基・平窯1基・色絵窯1基とその基礎と焼土・工房跡1棟・工房内の轆轤心石3基、そして、ものはら2箇所が発掘されました。江戸時代のものはらからは、染付・白磁・青磁などの磁器と色絵、陶器・素焼などが出土しました。
 大聖寺藩は、赤絵が加賀一帯で江戸の後期から末期にかけて大いに隆盛となる中、次第に青手古九谷や吉田屋窯の青手のような青色系の磁器が焼かれなくなってきたため、青九谷を再現させようとしたことから始めました。このため、当時、松山村の人はこの窯を「松山の御上窯」(藩公直営の窯の意味)と呼んだといわれます。
 しかしながら、源右衛門が文久3年(1863年)に歿し、菊三郎が蓮代寺窯の経営に傾注せざるをなくなり、また、大聖寺藩が山代の九谷本窯(宮本屋窯を買収してできた窯で、永楽窯ともいわれた)に財政的支援を集中するため、松山窯の保護を止めてしまいました。こうしたことから、松山窯は民営に移り、木下直明らによって明治5年(1872)頃まで続けられたといわれます。

松山窯 1848(嘉永元)~1872(明治5)年

松山窯は、嘉永元年(1848)、大聖寺藩が山本彦左衛門に命じて江沼郡松山村(現加賀市松山町)に興した窯です。その前年から小松の蓮代寺窯で青手古九谷の再現の取り組んでいた松屋菊三郎、粟生屋源右衛門らがこの窯に招かれました。素地は藩内の九谷村・吸坂村・勅使村などの陶石土を使って作られたもので、主として藩の贈答品として古九谷青手系の作品が作られました。
 昭和54-55年の窯跡の発掘調査では、登窯2基・平窯1基・色絵窯1基とその基礎と焼土・工房跡1棟・工房内の轆轤心石3基、そして、ものはら2箇所が発掘されました。江戸時代のものはらからは、染付・白磁・青磁などの磁器と色絵、陶器・素焼などが出土しました。
 大聖寺藩は、赤絵が加賀一帯で江戸の後期から末期にかけて大いに隆盛となる中、次第に青手古九谷や吉田屋窯の青手のような青色系の磁器が焼かれなくなってきたため、青九谷を再現させようとしたことから始めました。このため、当時、松山村の人はこの窯を「松山の御上窯」(藩公直営の窯の意味)と呼んだといわれます。
 しかしながら、源右衛門が文久3年(1863年)に歿し、菊三郎が蓮代寺窯の経営に傾注せざるをなくなり、また、大聖寺藩が山代の九谷本窯(宮本屋窯を買収してできた窯で、永楽窯ともいわれた)に財政的支援を集中するため、松山窯の保護を止めてしまいました。こうしたことから、松山窯は民営に移り、木下直明らによって明治5年(1872)頃まで続けられたといわれます。
色絵蕪に遊禽の図平鉢
KAM 能美市九谷焼美術館|五彩館|所蔵
色絵蕪に遊禽の図平鉢
KAM 能美市九谷焼美術館|五彩館|所蔵
KAM 能美市九谷焼美術館
能美市内九谷焼店舗
KAM 能美市九谷焼美術館
能美市内九谷焼店舗

KAM 能美市九谷焼美術館 陶工・陶商・作家一覧

粟生屋 源右衛門
裏銘 秋山画
二代 浅蔵五十吉
井出 善太郎商店製
十二代 永楽 和全
小田 清山
小野窯
笠間 竹雪
春日山窯
金井堂造
北出 塔次郎
木原 行成
玉山堂造
九谷 庄三
九谷北山堂 宮荘 一藤 製
九谷谷口製
古九谷
小酒 磯右衛門
斎田 道開
沢田 南久
酢屋 久平
初代 武腰 善平
二代 武腰 善平
初代 武腰 泰山
二代 武腰 泰山
谷口金陽堂製
二代 德田 八十吉
二代 冨田 松鶴
冨田 外次郎
中川 二作
初代 橋田 与三郎
三代 橋田 与三郎
本源堂
松原 新助
初代 松本 佐吉
松本 佐平
松山窯
道本 七郎右衛門
宮本屋窯
民山窯
森 一正
吉田屋窯
蓮代寺窯
若杉窯
綿谷 平兵衛製 松岳画
綿野 吉二商店製