綿野 吉二商店製
綿野吉二は、明治10年(1877)、父 綿野源右衛門の跡を継ぎました。明治12年(1879)、パリに九谷焼の直輸出を試み、翌年、支店を横浜に移して販路拡張に努めました。京浜の同志とともに日本貿易協会を設立しました。明治15年(1882)、陶商同盟の頭取となりました。16年香港、17年シンガポール・広東を視察し販路の拡張をはかります。綿野吉二をはじめ当時の陶器商人は、買弁(外国の貿易業者の仲立ちをする者)を通さず直輸出を望みましたが、非常に困難なことでした。これを実現させてくれた人が、後に第一高等学校長となった加賀藩出身の今村有隣で、右隣は、留学の経験や学んだ西洋の経済知識を生かして、吉二らの望みにこたえ、フランスへの直輸出の道と、パリでの現地販売の窓口を開き、ヨーロッパへの直輸出先を開拓しました。
ところが、粗製乱造の商品が現れはじめたので、明治15年(1882)、綿野吉二らの努力で、陶磁器技術の革新の第一人者 納富介次郎を迎え、産地のあり方ついての意見をとり入れました。能美郡の九谷業界で同盟規約が締結され、九谷陶器商同盟会、窯元同盟会、陶画工同盟会が相ついで発足し、同業者が一体となって、業界の問題に対処する気風が芽生えました。こうして、輸出見本の製作、上絵の徒弟試験の導入、共同窯での統一製品の製作などが実施されたことから、画風が刷新され、輸出が一段と伸びました。さらに、明治20年(1887)、陶画工の仕事が貿易の需要に応じきれなく、製品が粗製乱造になりかねなかったので、自邸に錦窯数基を築き、「天籟堂」と称しました。小松から石山文吉、佐々木梅松、山上佐吉など数名を招いて貿易九谷の絵付をさせました。明治22年には金沢から津田九憐、柏 華渓、村田甚太郎、窪田南山、平松時太郎、田辺渓泉などを招きました。県内の名画工が寺井に集められ、九谷焼の優品が作られました。
特に、高さ1.5mの花瓶、直径90cmに及ぶ大香炉、壷などに絵付することに成功し、貿易品として盛んに輸出されました。明治33年(1900)、博覧会のためパリに渡り、オランダ、ベルギー、ドイツ、イタリアを巡歴し、翌年、自邸に輸出向製品を作るためフランス式堅窯を築き、製品に「景徳園製」と款しました。特に、貿易九谷のために力を注ぎ、博覧会創立委員、博覧会出品組合委員長、貿易会社役員などの要職に就き、大正15年(1926)、住まいを横浜に移し、海外貿易に従事しました。大正3年、本邸に能美地区の九谷焼の開祖本多貞吉と九谷庄三、綿野家先祖を祀る祠を建てました。同12年の関東大震災で横浜の支店が壊滅的打撃を受け、寺井の本店も閉めるにあたり祠を庄三会に寄贈、名も九谷神社と改められました。寺井の本邸跡は現在、寺井武道館となり空手、柔道、剣道等を中心に、幅広く武道競技に使用されています。75歳で生涯を閉じるまで、九谷焼の発展に最後まで貢献された一人です。
写真は綿野吉二
綿野 吉二商店製
綿野吉二は、明治10年(1877)、父 綿野源右衛門の跡を継ぎました。明治12年(1879)、パリに九谷焼の直輸出を試み、翌年、支店を横浜に移して販路拡張に努めました。京浜の同志とともに日本貿易協会を設立しました。明治15年(1882)、陶商同盟の頭取となりました。16年香港、17年シンガポール・広東を視察し販路の拡張をはかります。綿野吉二をはじめ当時の陶器商人は、買弁(外国の貿易業者の仲立ちをする者)を通さず直輸出を望みましたが、非常に困難なことでした。これを実現させてくれた人が、後に第一高等学校長となった加賀藩出身の今村有隣で、右隣は、留学の経験や学んだ西洋の経済知識を生かして、吉二らの望みにこたえ、フランスへの直輸出の道と、パリでの現地販売の窓口を開き、ヨーロッパへの直輸出先を開拓しました。
ところが、粗製乱造の商品が現れはじめたので、明治15年(1882)、綿野吉二らの努力で、陶磁器技術の革新の第一人者 納富介次郎を迎え、産地のあり方ついての意見をとり入れました。能美郡の九谷業界で同盟規約が締結され、九谷陶器商同盟会、窯元同盟会、陶画工同盟会が相ついで発足し、同業者が一体となって、業界の問題に対処する気風が芽生えました。こうして、輸出見本の製作、上絵の徒弟試験の導入、共同窯での統一製品の製作などが実施されたことから、画風が刷新され、輸出が一段と伸びました。さらに、明治20年(1887)、陶画工の仕事が貿易の需要に応じきれなく、製品が粗製乱造になりかねなかったので、自邸に錦窯数基を築き、「天籟堂」と称しました。小松から石山文吉、佐々木梅松、山上佐吉など数名を招いて貿易九谷の絵付をさせました。明治22年には金沢から津田九憐、柏 華渓、村田甚太郎、窪田南山、平松時太郎、田辺渓泉などを招きました。県内の名画工が寺井に集められ、九谷焼の優品が作られました。
特に、高さ1.5mの花瓶、直径90cmに及ぶ大香炉、壷などに絵付することに成功し、貿易品として盛んに輸出されました。明治33年(1900)、博覧会のためパリに渡り、オランダ、ベルギー、ドイツ、イタリアを巡歴し、翌年、自邸に輸出向製品を作るためフランス式堅窯を築き、製品に「景徳園製」と款しました。特に、貿易九谷のために力を注ぎ、博覧会創立委員、博覧会出品組合委員長、貿易会社役員などの要職に就き、大正15年(1926)、住まいを横浜に移し、海外貿易に従事しました。大正3年、本邸に能美地区の九谷焼の開祖本多貞吉と九谷庄三、綿野家先祖を祀る祠を建てました。同12年の関東大震災で横浜の支店が壊滅的打撃を受け、寺井の本店も閉めるにあたり祠を庄三会に寄贈、名も九谷神社と改められました。寺井の本邸跡は現在、寺井武道館となり空手、柔道、剣道等を中心に、幅広く武道競技に使用されています。75歳で生涯を閉じるまで、九谷焼の発展に最後まで貢献された一人です。
写真は綿野吉二
KAM 能美市九谷焼美術館 陶工・陶商・作家一覧