初代 武腰 善平 1843(天保14)~1907(明治40)年
初代 武腰善平は、12才で九谷庄三の門に入りました。九谷庄三の妻 しづは善平の姉に当たることから、庄三から格別の薫陶を受けました。貿易九谷が盛んになってきたころ、庄三が中心的存在であったので、その内弟子に当たった善平は非常に多忙で、庄三に代わって着画することもあれば、庄三の仕事も手伝わされることもあったといわれます。庄三の門下に12年間、一時は庄三の養子にとまで推されましたが、慶応元年(1865)、独立して寺井村で陶画業を始めました。それからも、朋輩の笠間秀石、中野忠次らとともに庄三を助ける一方で、絵付業に専心し、「庄三風」の充実発展に努めました。庄三の弟子300余人のうち第1人者として自他ともに認められるまでになり、号を廣布洞といいました。庄三の亡きあと、「庄三風」を継承する第一人者として、後継を育成し、また子の二代 善平、泰之(初代 武腰泰山)をはじめとする武腰一門の総師として活躍しました。KAM 能美市九谷焼美術館 陶工・陶商・作家一覧