中川 二作 1850(嘉永3)~1906(明治39)年

中川二作は大長野村の人で、嘉永3年(1850)次郎右衛門の四男として生まれました。14歳のとき九谷庄三の門に入りましたが、当時、九谷庄三の寺井工房には大勢の門弟がいました。門弟は通いがほとんどで、二作のような住み込みの者は少なく随分苦労をしたようです。明治3年(1870)、自宅にて陶画業を生業に独立をしました。絵画の修業は金沢に出て、加賀狩野派の佐々木泉龍について学んだといいます。長じては政府顧問のドイツ人科学教師ドクトルワグネル来県時に、彼を自宅に招き直接指導を受けています。明治10年(1877)には第一回の内国勧業博覧会にも出品しました。白磁彩描、泥金描、顔料精選、陶画摩擦にメノウを使用するなど技術技法の改良に苦心しており、その功績は大きいのです。明治26年(1893)の万国博覧会で賞牌を受けたほか、内外の共進会などで数多く受賞し、明治32年(1899)には明治政府から銀杯を授かっています。 明治36年(1903)12月11日57歳で死去。門人らによって翌年5月に記功石碑が建立され、その後大長野八幡神社の境内に移されています。制作にあたっては師の九谷庄三から受けた自然の美しさを花鳥、人物、山水に託して精せい緻ちを極めた運筆には目を見張るものがあります。

中川 二作 1850(嘉永3)~1906(明治39)年

中川二作は大長野村の人で、嘉永3年(1850)次郎右衛門の四男として生まれました。14歳のとき九谷庄三の門に入りましたが、当時、九谷庄三の寺井工房には大勢の門弟がいました。門弟は通いがほとんどで、二作のような住み込みの者は少なく随分苦労をしたようです。明治3年(1870)、自宅にて陶画業を生業に独立をしました。絵画の修業は金沢に出て、加賀狩野派の佐々木泉龍について学んだといいます。長じては政府顧問のドイツ人科学教師ドクトルワグネル来県時に、彼を自宅に招き直接指導を受けています。明治10年(1877)には第一回の内国勧業博覧会にも出品しました。白磁彩描、泥金描、顔料精選、陶画摩擦にメノウを使用するなど技術技法の改良に苦心しており、その功績は大きいのです。明治26年(1893)の万国博覧会で賞牌を受けたほか、内外の共進会などで数多く受賞し、明治32年(1899)には明治政府から銀杯を授かっています。 明治36年(1903)12月11日57歳で死去。門人らによって翌年5月に記功石碑が建立され、その後大長野八幡神社の境内に移されています。制作にあたっては師の九谷庄三から受けた自然の美しさを花鳥、人物、山水に託して精せい緻ちを極めた運筆には目を見張るものがあります。
金襴手鳳凰図鉢
KAM 能美市九谷焼美術館|五彩館|所蔵
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能美市内九谷焼店舗
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KAM 能美市九谷焼美術館 陶工・陶商・作家一覧

粟生屋 源右衛門
裏銘 秋山画
二代 浅蔵五十吉
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十二代 永楽 和全
小田 清山
小野窯
笠間 竹雪
春日山窯
金井堂造
北出 塔次郎
木原 行成
玉山堂造
九谷 庄三
九谷北山堂 宮荘 一藤 製
九谷谷口製
古九谷
小酒 磯右衛門
斎田 道開
沢田 南久
酢屋 久平
初代 武腰 善平
二代 武腰 善平
初代 武腰 泰山
二代 武腰 泰山
谷口金陽堂製
二代 德田 八十吉
二代 冨田 松鶴
冨田 外次郎
中川 二作
初代 橋田 与三郎
三代 橋田 与三郎
本源堂
松原 新助
初代 松本 佐吉
松本 佐平
松山窯
道本 七郎右衛門
宮本屋窯
民山窯
森 一正
吉田屋窯
蓮代寺窯
若杉窯
綿谷 平兵衛製 松岳画
綿野 吉二商店製