宮本屋窯 1835(天保6)~1852(嘉永5)年
天保2年(1831) に借銀過重等により焼止めを余儀なくした再興九谷「吉田屋窯」を譲り受けたのは、かって番頭だった宮本屋宇右衛門でした。宮本屋は大聖寺城下で同じ町に住む染めもの画工、飯田屋八郎右衛門を赤絵付け画工に抜擢し翌年、宮本屋窯として再出発しました。主工の飯田屋八郎右衛門は春日山窯で試みられていた赤絵細描の手法を取入れ、中国明代の唐墨文様集の雅趣に富んだ画題を活用して赤絵九谷を大成しました。これによりこの手の赤絵を飯田屋もしくは八郎手と呼んでいます。嘉永5年(1852)八郎右衛門が亡くなり、安政6年(1859)に廃窯となりました。KAM 能美市九谷焼美術館 陶工・陶商・作家一覧