九谷庄三は江戸後期の文化年間に寺井村の茶屋を兼業していた農家に生まれました。幼名は庄七といい、嘉永年間頃に庄三と改名しています。庄七は叔父の茶屋与三郎に育てられましたが、祖父と血縁関係にあった寺井村十村役で文人でもあった牧野孫七のすすめによって陶工の道を歩むことになりました。11歳の時に若杉窯の見習工として従事し、粟生屋源右衛門や赤絵勇次郎ら名工から陶技の影響を受けました。その後、同じ再興九谷の小野窯や宮本屋窯で従事しながら、粟生屋源右衛門風の軟陶の青手や飯田屋八郎右衛門風の赤絵細描を習得しました。いくつかの窯の招聘に応じた後、天保12年(1841)、庄七26歳の時に寺井に帰郷し、工房を開き独立しました。やがて華やかな色絵に京焼の永楽和全の九谷に伝えた金襴手を加味し、さらに西洋絵具をも加えた庄三風ともいえるいわゆる「彩色金襴手」を確立しました。この作品は、この様式で撥形の徳利に吉祥文様の高砂の図を描いています。ハレの場にもふさわしい図柄で珍重されたことでしょう。また撥形は安定性が良く、粋な川船遊びなどに優雅に使用された可能性があり、十村で文人でもあった牧野家の影響もあったことでしょう。当時の華やかさを思わせる逸品です。