春日山窯 1807(文化4)~1818(文政元)年
江戸時代後期の文化4年(1804年)、加賀藩は京焼の名工、青木木米を招聘して金沢城下の卯辰山に春日山窯を開窯させました。江戸時代前期の九谷古窯(古九谷)が閉窯してからおよそ百年が経ち、加賀の地で再び色絵磁器を焼く窯烟が立ち上りました。これが再興九谷の端緒となりました。木米は京都祇園の茶屋「木屋」佐兵衛の長男として生れました。長じて京有数の文人となり、書画を巧くみにし、中国明時代につくられた色絵磁器の倣古作品の制作に秀でていました。それを「唐物写し」といい、その名手として寛政12年(1800年)には京ですでに評判を取っていました。赤地に色絵で仙人を沢山描く「百老手」や赤で速度感のある文様よ筆致の「呉須赤絵」をはじめ、交趾焼、金襴手などを得意としました。文化4年からのほぼ1年の加賀滞在で木米は帰京したため、加賀に残した作品はあまり多くはありませんが、「金府」や「金城製」、「春日山製」などの銘を作品に入れました。「百老手」はいまも九谷焼の色絵の伝統様式「木米風」となっています。原料の陶石(磁土)は、九谷陶石(大聖寺藩奥山方九谷村に産出した陶石。古九谷の原料。)を取り寄せ使用したことが、木米の功績を顕彰する『箕柳祠碑文』(きりゅうひしぶん)に書かれています。それによれば、木米はかつて加賀の国で生産した古九谷の存在を知っており、文化3年(1806年)、その良 磁の原料を九谷村から取り寄せて焼き、かつての古九谷を彷彿とさせる素地味となったことをとても喜んだと伝えています。加賀へ来る数年前の享和元年(1801年)頃、紀州徳川家に招きを受けたのですが、紀州(今の和歌山)には良い原料(陶石)がないため、断念しています。ただ金沢城大火による多額の出費で待遇面が悪化し、助工であった門人らを残して文化5年(1808年)の冬、ひとり帰京します。その後、金沢の人松田平四郎のもと本多貞吉ら木米の門人らで窯は継続され、「呉須赤絵」写し作品を数多く残していますが、九谷陶石の地までは遠く、近隣の陶土を混ぜた半陶半磁がほとんどで、優れた磁器素地の供給に苦労したようです。本多貞吉が陶石の踏査のため、若杉村に赴き、まもなく文政初年(1820年)頃に春日山窯は閉窯しました。KAM 能美市九谷焼美術館 陶工・陶商・作家一覧