綿野 吉二商店製 九谷功精堂
加賀藩窯だった「若杉窯」が明治8年(1875)廃窯したあと、同じエリアの能美郡八幡村(現在の小松市八幡)に松原新助(1846〜 1899)という工人が素地と絵付けの分業制を提唱して新窯をつくりました。それは明治の貿易九谷の素地制作を専門に請け負うためで、試行錯誤の末、熱効率の良い西洋式の窯を取り入れた窯元となりました。貿易九谷はジャパンクタニとも呼ばれ、煌びやかな色絵磁器で形は皿鉢や花瓶のみならず、東洋趣味のオブジェとしての物が欧米の屋敷内に飾り映えするため求められました。実用品に形を借りた飾り物、調度品でした。中でも大香炉には優れた絵付けだけでなく、素地自体に大きな特徴がありました。それは蓋の摘みなどに、龍などの動物や唐人物の大きめの陶彫を取り付けたのでした。そのために松原新助は金沢や他県などからわざわざ高名な彫刻師を窯に雇い入れ、やがて膨刻の部分だけの原型を作り、それを製品としたところから、八幡エリアが今日に至って九谷焼の置き物産地として有名になっていっ たのです。