綿野製 田辺渓泉描
加賀藩窯だった若杉窯が1875(明治8)年に廃窯した後、同じエリアの能美郡八幡村(現在の小松市八幡)に、松原新助という工人が素地と絵付の分業制を提唱して、新窯を造りました。それは明治貿易九谷の素地制作を専門に請け負うためで、試行錯誤の末、熱効率の良い西洋式の窯を取り入れた窯元となりました。貿易九谷は「ジャパンクタニ」とも呼ばれ、煌びやかな色絵磁器で形は皿鉢や花瓶のみならず、東洋趣味のオブジェとしての物が欧米の屋敷内に飾り映えするため求められました。実用品に形を借りた飾り物、調度品でした。中でも大香炉には優れた絵付だけでなく、素地自体に大きな特徴がありました。それは蓋の摘み等に、龍等の動物や唐人物の大きめの陶彫を取り付けたのでした。そのために松原新助は、金沢や他県等からわざわざ高名な彫刻師を窯に雇い入れ、やがて彫刻の部分だけの原型を作りそれを製品としたところから、八幡エリアが今日に至って九谷焼の置き物産地として有名になっていったのです。