三代 橋田与三郎
初代橋田与三郎は、嘉永4年(1851)正月に佐野村で生まれました。長じて斎田伊三郎(道開)の門に入り、画業修業8年にして赤絵の細描を能よくするようになりました。明治8年(1875)同門の初代亀多山月(亀田平次郎)らと協力して「佐野画工15日会」を結成し、自ら初代の会長となり、徒弟の絵付けを奨励し、試験制度を作って後進の育成にあたりました。翌年より能美郡役所が招聘した納富介次郎や荒木探令を講師に、陶画図案や顔料使用法の研究など懸命に修学し、関係画工らに粗製乱造にならぬよう画法改善を勧めることに努めました。明治35年(1902)九谷陶磁器同業組合が結成されると画工部長となり、評議員を兼任しました。徒弟試験制度の審査は九谷焼上絵の改良進歩に大きく貢献しました。大正15年(1926)9月7日、76歳にて死去。門弟には、北村与三松、古西幸男、西野仁太郎らがおり、陶号の与三郎は2代与三郎(仁太郎)、3代与三郎(皐月)と続き、赤絵の名品を数多く残しました。
三代 橋田与三郎
初代橋田与三郎は、嘉永4年(1851)正月に佐野村で生まれました。長じて斎田伊三郎(道開)の門に入り、画業修業8年にして赤絵の細描を能よくするようになりました。明治8年(1875)同門の初代亀多山月(亀田平次郎)らと協力して「佐野画工15日会」を結成し、自ら初代の会長となり、徒弟の絵付けを奨励し、試験制度を作って後進の育成にあたりました。翌年より能美郡役所が招聘した納富介次郎や荒木探令を講師に、陶画図案や顔料使用法の研究など懸命に修学し、関係画工らに粗製乱造にならぬよう画法改善を勧めることに努めました。明治35年(1902)九谷陶磁器同業組合が結成されると画工部長となり、評議員を兼任しました。徒弟試験制度の審査は九谷焼上絵の改良進歩に大きく貢献しました。大正15年(1926)9月7日、76歳にて死去。門弟には、北村与三松、古西幸男、西野仁太郎らがおり、陶号の与三郎は2代与三郎(仁太郎)、3代与三郎(皐月)と続き、赤絵の名品を数多く残しました。
花瓶 赤絵割取
清峰堂株式会社