中嶋珠光

本名中嶋源雄 1911(明治44)年11月3日九谷上絵師中嶋文作の第三子次男として生まれた。父は九谷庄三の採弟子に当たる職人だったが、長男秀雄(寿山)は上絵師を継ぐとしても次男源雄には他の仕事をさせたかったらしい。だが源雄は父の仕事や兄の修業を見てか執念のように絵筆を持ちたかった。陶画は初代武腰泰山や笠間竹雪に学んだ。手ほどきは泰山に、作品としては竹雪に学ぶことが多かったが、寺井野村が招いた県立工業学校の安達陶仙について系統的に基本から学習させられた。のち県立工業学校で日曜ごとに開講された専科に学んだ。同窓には松ケ浦文四郎や北野範二・小西尚俊らがいる。のち乞われて北出塔次郎の北出窯に手伝いに行ったが、ここで仮寓して制作していた富本憲吉と出会う。富本憲吉が「精一杯いいものを作って安く売れ」といわれたことが脳裡に焼きついていたという。戦時中の徴用や召集で空けた期間を除けば絵筆一本で歩んだ執念が実ったことになるが、珠光と号して作品を造るようになってからは徹底的に九谷の上絵に固執、大和絵風な日本画を陶磁器の大皿や花瓶等に彩画してきた。飛鳥・奈良時代の故事や天下の美術にあこがれ、その源流ともいわれる中国の古美術にも関心があって、1947(昭和49 年文部大臣賞「天下を思ぶ」のような作品が生まれている。
若いころ火度の低い絵具を使ったころからん彩の輝きは火度によって発色が大きく左右されることを痛感してきた。それは素地の肌を見ても焼きしめた火度が連想出来るまでにいく度となく研究をつづけてきたことと相まって、「絵具を徹底的に焚き込む」作品づくりにつながっている。
繊細でありながら大腿な筆致で描かれ優雅な気品さえ感じさせる画風は独得の美しさを保っている。

中嶋珠光

本名中嶋源雄 1911(明治44)年11月3日九谷上絵師中嶋文作の第三子次男として生まれた。父は九谷庄三の採弟子に当たる職人だったが、長男秀雄(寿山)は上絵師を継ぐとしても次男源雄には他の仕事をさせたかったらしい。だが源雄は父の仕事や兄の修業を見てか執念のように絵筆を持ちたかった。陶画は初代武腰泰山や笠間竹雪に学んだ。手ほどきは泰山に、作品としては竹雪に学ぶことが多かったが、寺井野村が招いた県立工業学校の安達陶仙について系統的に基本から学習させられた。のち県立工業学校で日曜ごとに開講された専科に学んだ。同窓には松ケ浦文四郎や北野範二・小西尚俊らがいる。のち乞われて北出塔次郎の北出窯に手伝いに行ったが、ここで仮寓して制作していた富本憲吉と出会う。富本憲吉が「精一杯いいものを作って安く売れ」といわれたことが脳裡に焼きついていたという。戦時中の徴用や召集で空けた期間を除けば絵筆一本で歩んだ執念が実ったことになるが、珠光と号して作品を造るようになってからは徹底的に九谷の上絵に固執、大和絵風な日本画を陶磁器の大皿や花瓶等に彩画してきた。飛鳥・奈良時代の故事や天下の美術にあこがれ、その源流ともいわれる中国の古美術にも関心があって、1947(昭和49 年文部大臣賞「天下を思ぶ」のような作品が生まれている。
若いころ火度の低い絵具を使ったころからん彩の輝きは火度によって発色が大きく左右されることを痛感してきた。それは素地の肌を見ても焼きしめた火度が連想出来るまでにいく度となく研究をつづけてきたことと相まって、「絵具を徹底的に焚き込む」作品づくりにつながっている。
繊細でありながら大腿な筆致で描かれ優雅な気品さえ感じさせる画風は独得の美しさを保っている。
笛吹童子
九谷百万石
笛吹童子
九谷百万石
KAM 能美市九谷焼美術館
能美市内九谷焼店舗
KAM 能美市九谷焼美術館
能美市内九谷焼店舗

能美市内九谷焼店舗 陶工・陶商・作家一覧

粟生屋源右衛門
太田俊英
小田清山
四代 上出喜山
北出塔次郎
越田健一郎
末川泉山
高聡文
武腰潤
田村金星
初代 德田八十吉
中嶋珠光
中田一於
中田錦峰
初代 中田龍山
中村陶志人
中村翠恒
西谷加陽
西田吉勝
西野美香
三代 橋田与三郎
藤村正美
三浦晃禎
宮本忠夫
吉田美統