初代 德田八十吉
1873(明治6) 年2月20日小松の大文字町にあった染色業の1屋の伊助の長男として生まれた。年少のころ染色とのかかわり深いとして日本画を志す。特野派の画家といわれた荒木採令や山本永暉に師事。みずからも公暉と号した。のち松本左瓶について九谷上絵付を学び、師匠荒木採令また磁界に着画せられるに及んで、九谷上絵の研究に心血をそそぐこととなった。九谷五彩の再現は古九谷・吉田屋以来といわれ、なかでもその深厚釉は九谷上絵を自在に表現し得るすべてを含むものと賞讃された。
古九谷風、吉田屋風、栗生屋風、金らん手、深厚釉と、その表現は多彩を極めた。すぐれた彩釉と抜きん出た描写表現の妙は、一作ごとに評価が高まったという。昭和初期から戦前・戦中にかけて諸資材払底の中で営々として作画をつづけ、戦後はあらためて後進の育成にも力をつくし、みずから大成の深厚で傑作を残している。
1953(昭和28)年九谷焼業界初の国の重要無形文化財指定作家に認定された。
鬼仏と号して陶磁器業以外の文化活動にも参加したが、1956(昭和31)年83歳で他界した。
(九谷焼330年より)
初代 德田八十吉
1873(明治6) 年2月20日小松の大文字町にあった染色業の1屋の伊助の長男として生まれた。年少のころ染色とのかかわり深いとして日本画を志す。特野派の画家といわれた荒木採令や山本永暉に師事。みずからも公暉と号した。のち松本左瓶について九谷上絵付を学び、師匠荒木採令また磁界に着画せられるに及んで、九谷上絵の研究に心血をそそぐこととなった。九谷五彩の再現は古九谷・吉田屋以来といわれ、なかでもその深厚釉は九谷上絵を自在に表現し得るすべてを含むものと賞讃された。
古九谷風、吉田屋風、栗生屋風、金らん手、深厚釉と、その表現は多彩を極めた。すぐれた彩釉と抜きん出た描写表現の妙は、一作ごとに評価が高まったという。昭和初期から戦前・戦中にかけて諸資材払底の中で営々として作画をつづけ、戦後はあらためて後進の育成にも力をつくし、みずから大成の深厚で傑作を残している。
1953(昭和28)年九谷焼業界初の国の重要無形文化財指定作家に認定された。
鬼仏と号して陶磁器業以外の文化活動にも参加したが、1956(昭和31)年83歳で他界した。
(九谷焼330年より)
香炉 鬼がわら
清峰堂株式会社