能美の名工・名商
能美の名工・名商

レジェンド・オブ・
クタニ

陶磁器商 綿野吉二(1859~1934)
安政6年12月28日、加賀国能美郡寺井村(石川県能美市寺井町)で生まれました。綿野家はもともと木綿商でしたが、父源右衛門は九谷焼の輸出を志し、明治6年のウイーン万博に出品、同7年には神戸に支店を開設し、同9年、フィラデルフィア万博に出品するなど、九谷焼を海外に紹介しました。同10年(1877)吉二が18才で家督を継ぐと同13年には神戸から横浜に支店を移し、海外貿易により九谷を広く海外に広めるとともに、京浜急行の前身となる大師鐵道株式会社の設立者の一人としても活躍しました。


綿野吉二

30歳となる明治24年(1891)2年後に開催されるシカゴ・コロンブス世界博覧会の一員に加えられ、また、各地に作られた博覧会への出品組織の中で、能美協会の総代、石川県出品協会の理事を務め、横浜組にも加わるなど博覧会に最も深く多面的に関わりました。その背景には、2年前の同22年(1889)パリ万博の際に出品した日本陶磁の評判が全体的に芳しくなく、その中でも前回同様に赤絵金彩の作品を出品していた九谷焼は「進歩がない」と特に厳しい評価を受けていた経緯もあり九谷焼の失地回復の機として捉えていたのかもしれません。
石川県寺井の本邸に錦窯を築き陶工を招いて外国向けの大作の製作もおこないます。同34年、邸内にフランス式の石炭窯を設け主に欧州向けの製品を作らせるなど、横浜と能美を往復し九谷焼の輸出拡大を続けます。
大正3年、本邸に能美地区の九谷焼の開祖本多貞吉と九谷庄三、綿野家先祖を祀る祠を建てました。同12年の関東大震災で横浜の支店が壊滅的打撃を受け、寺井の本店も閉めるにあたり祠を庄三会に寄贈、名も九谷神社と改められました。寺井の本邸跡は現在、寺井武道館となり空手、柔道、剣道等を中心に、幅広く武道競技に使用されています。75歳で生涯を閉じるまで、九谷焼の発展に最後まで貢献された一人です。

綿野製 九谷功精堂
赤絵金彩鍾馗像大香炉

綿野製  九谷功精堂 赤絵金彩鍾馗像大香炉 綿野製  九谷功精堂 赤絵金彩鍾馗像大香炉 綿野製  九谷功精堂 赤絵金彩鍾馗像大香炉 綿野製  九谷功精堂 赤絵金彩鍾馗像大香炉

胴径29.0/高51.5cm
明治期
能美市九谷焼美術館|五彩館|

綿野製  九谷功精堂
赤絵金彩鍾馗像大香炉

綿野製  九谷功精堂 赤絵金彩鍾馗像大香炉 綿野製  九谷功精堂 赤絵金彩鍾馗像大香炉

胴径29.0/高51.5cm
明治期
能美市九谷焼美術館|五彩館|